0-7.凍てつく解放

第二次世界大戦の終戦後、

武装解除され投降した日本軍捕虜らが、

ソビエト連邦によって主にシベリアなどへ

労働力として移送隔離され、

長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働を

強いられた。

人的被害は甚だしく、日本人兵士57万人中、

約6万人が亡くなったという。

 

 

 

一方で、

 

 

アドルフ・ヒトラー率いる

ナチス党が建設した

アウシュヴィッツ強制収容所では、

100万人以上が命を落としたといわれている。

収容所内には厳重な警備が敷かれ、

監視塔や電気柵が張り巡らされるなど

脱出は事実上不可能とされていた。

そんな中、囚人が脱出を図り、

実際に生き残った囚人がいるそうだ。

 

 

 

無念極まりなく命を落とされた者へ

心からの哀悼の意と、私たちが今を

平和に生きられていることに、

誠に感謝を、どうか感謝を。

そして、生き残った者がいるという事実は

これはこれで爽快であり、

自らの命運を生きる信念で変えた

勇士の姿を称えたい。

 

 

 

 

 

 

12月、長野県長野市某所。

外に干した洗い物は

瞬く間にまな板に様変わりするほど

この地の冬は厳寒となる。

 

 

 

しんしんと、雪は絶え間なく

静かに降りしきる。

 

 

 

そう、雑音を優しく遮る雪原のように

静かに。

 

 

 

それはアパートの一部屋の

決して広くない居間の窓越しに、

暖かな時を刻んでいることを

秒速5センチ程度に

ふわふわと舞い降りて教えてくれている。

 

 

 

ここは3人の時間が約束された場所。

 

 

家の大きさも格式も小さな監視社会からも

隔離された新たな地。

 

 

 

それは言うまでもなく、

母にとっては特別の、

まるで世界から銃声が一斉に消えたような、

安らかな日々の始まりだった。

 

 

 

初めての転校で最初こそ不安と寂しさが

募ったが、

いざ長野に着いてしまえば、

次に行く学校のことや、そこに

どんな友達が待っているか。

東京では見られない、はるかに多い

雪景色に楽しさを膨らませていたのは

子どものパワーといったところか。

 

 

 

登校して間もなく、

学校のストーブには灯油が必要だということに

まず驚いた。

東京育ちはそんなことをしたことがない。

当番で灯油を取りに行き、ストーブに灯油を

入れる。そんなことでさえ、何か楽しかった。

 

積雪で登校が困難な場合はスキーウェア登校、

延いてはスキー板装備OKというユニークな

ものだった。

通学路一帯は特に坂もないので

決して滑走は出来ないが、

いつかやりたいと願うセンマ少年である。

 

 

 

家から車で5分ほどのところにあるジャスコは

クリスマスツリーと沢山の飾り、

サンタクロースたちに彩られ、

哀しかった出来事も消し去るように

クリスマスが今年もやってくることを

楽しげに告げてくる。

 

 

 

初詣に参拝した善光寺は、

おやきがとても美味しかった。

本堂の観光ルートに暗くて長いトンネルがあり

潜った先に荘厳な大きい仏像があった。

暗闇から抜け出した安堵感のせいなのか、

いっそう煌びやかに見えた。

 

 

 

 

 

3学期早々、校内にある凍った噴水池に

落ちて風邪をひいたり、

観察用のクラスの干し柿を

勝手に食って怒られたり。

 

授業の一環で近くの老人ホームに行き

発表会をしたり、

遠足でよもぎを採りに行って

ヨモギ団子を作ったり・・・。

 

 

 

そうして、舞い落ちる雪とこの

爽やかな寒さは、

絶えず他愛ない日々に溶かされ、

春に新しい目を息吹かせて、

桜色の花が咲く季節が、やって来る。

 

きっとこの刹那も、

大きな成長を遂げている息子を

母はこうして見守っていたのだろう。

こんな日がずっと続けばいいなと、

みんながそう思った。

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